はる家の仮名遣ひ
幼い時、心好い歌聲のひびきに眠りをさそはれながら夢路にいり、さめては常に國語を聞き、國語を語り、國語の中に生活し、生まれしより此の方、常に國語を使用し、國語に教へられながら大きくなつた。國語によつて日本人としての魂は培はれ、磨かれてきた。我が國語には、祖先以来の感情精神がとけこんでをり、國語を通じて縦に祖先の魂に連なり、横に今日の我々を國民として結び附けてゐる。
「幸ひ」は、全て假名で書くと「さいはひ」。さきはひ、の音便。さきはふこと、の意。「さきはふ」は、「よき運にてあり。榮ゆ。」(大正4年『大日本國語辞典』上田萬年、松井蕑治共著)。『萬葉集』の有名な歌に「神代よりいひ傳てけらく、そらみつ大和の國は、すめ神のいつくしき國、ことだまの佐吉播布(サキハフ)國と、語りつぎいひつがひけり」とある「さきはふ」である(巻5・894・山上憶良)。
「さいはひ」を、どう書くかといふことから、1,000年を優に超えて『萬葉集』まで遡れるのが、本来の假名遣ひである本假名遣ひ(正假名遣ひ・歴史的假名遣ひ)の素晴らしいところである。我々は國語の有してゐる精神を通じ、神話まで絶え間ない一本の道で繋がる皇國の傳統を、かつて身を挺して護持し来つた祖先の偉業を、身を持つて知り、其の尊い教を繼承せんとする魂が培はれていく。単に字が書ける、喋れるといふだけなら、極端に言へば全部ローマ字で書いても事足りる。
現に、東南アジア諸國の植民地支配を300年以上も續けてゐた欧米列強は、いかにすれば相手國民を愚民化できるかについて熟知してゐたため、敗戦後の日本を二度と立ち直らせないやうに、幾つもの占領政策を行なつた。宮家の解體。神社の宗教法人化。國語の假名遣ひを壊すことも、その一つとして、終戦から僅か6ヶ月後の3月に、日本語をローマ字表記にする第一次教育使節團報告書(文部科学省 公式サイト)が提出され、續く11月には、日本人が成立させた體裁をとつて「当用漢字」と「現代かなづかい」が制定されてゐる(文化庁公式サイト:昭和21年内閣告示第33号)。
これら占領政策により、我が國の傳統を身に付ける手掛かりをなくしてしまつた戦後は、世代間の断絶を深め、家庭から神棚が失はれ、未婚/晩婚が増えて少子化が止まらなくなつた。占領から58年後の平成16年には「國語學會」は「日本語学会(日本語学会 公式サイト)」と自ら名称を變えてしまつた。
「國」を失ひ、飯さへ食へていれば、命さへあれば、あとは何でも構はない。出来事をただ列挙したものを「歴史」と呼び、意思をただ傳達するための手段を「言語」と呼んで違和感を覚えないのであれば、それは奴隷と同じ感覚ではないか。神武建國以来、我が國が何を追ひ求めてきたのか、その軌跡が「國史」であり、昔さながら脈々として今日に受け繼がれてゐる日本人の精神的血液が「國語」である。「藤」は正しく假名で書けば「ふじ」ではなく「ふぢ」であるが、さう思つて見直してみると薫りが増すやうではないか。
元来國語そのものは固定したものではなく、常に生動し発展してゐるものである。國語は生命體であり、随つてこれを使用する國民の心掛け如何によつて國語はよくもなり悪くもなる。全てを昔の通りに行なおうといふのではない。わかりもしない内から變えるのではなく、よくわかつた上で變わつていく、その先には眞に豊かな國語の発展もあらう。戦後も臺灣が本字體(正字體・舊字體)を残してくれ、機械技術の進歩により漢字変換が容易になつた昨今、本字・本假名遣ひ見直しの機運が高まつてゐる。
國語の「語」の「語る」は「形る」であり、「形づくる」であつて、「國語」とは「國を形づくるもの」に他ならない。澄んだ目、ひきしまつた口、のびた指、揃へられた足、きちんとした體。日本の表現は寡黙の中に言葉があり、なるべく表はすものを少くして含むものを多くするところに其の表現の特質がある。俳句なり和歌なりの表現姿態を考へる時に、自づと氷解される、心を以つて心に傳へる國語の御恩に、今日から真剣に報いていきたいと思ふのだ。
令和 辛丑