[4月4日]京都 後鳥羽天皇 大原陵 正辰祭
[4月4日]
京都
後鳥羽天皇大原陵正辰祭
4月4日は第82代 後鳥羽天皇の崩御日に當り、 後鳥羽天皇 大原陵で斎行される正辰祭に參じました。
鳥居に向かつて右に拜する「石造十三重塔」が 後鳥羽天皇の御陵。左には、拜所からは隠れてゐますが、第3皇子で第84代 順徳天皇の「圓丘」が坐します。
「承久の變」後、 後鳥羽天皇は隠岐へ、 順徳天皇は佐渡へ遷幸になり、ともに京都への還幸は叶はぬまま崩御されました。 後鳥羽天皇陵すぐ側にある勝林院に御遺骨が安置された御縁で、明治22年(1889)に天皇陵を治定する際に、今の場所を御陵と定められた経緯などを、正辰祭後に宮内庁職員方が詳しく解説して下さいました。







「イイクニつくらう鎌倉幕府」の語呂合はせで有名な建久3年(1192)に、源頼朝を征夷大将軍に任命された天皇が他ならぬ 後鳥羽天皇で、以後、鎌倉→室町→江戸と、明治元年(1868)の大政奉還まで676年間續く「武家政権」が始まる歷史的轉換期に在位されました。
平家と共に都落ちされた 安徳天皇(第81代)のお手元に三種の神器があるまま、源氏が擁立する 後白河法皇の院宣により御即位(第82代)。三種の神器がない並立状態が2年近く續いた後、壇ノ浦の入水により寶剣が失はれるといふ、國史始まつて以来の大事件も起こつてゐます。





ご周知の通り、三種の神器の1つ、寶剣・天の叢雲の剣(草薙剣)の正體は熱田神宮に鎭座してゐます。壇ノ浦の後、 土御門天皇は清涼殿の剣を代りに宛て、次の 順徳天皇からは新たに伊勢神宮から奉獻された剣を神剣として今に至つてゐます。第10代 崇神天皇の御代に、三種の神器の内の2つ、鏡と剣を皇居から離され、第11代 垂仁天皇の御代に鏡が伊勢神宮に、第12代 景行天皇の御代に剣が熱田神宮で祀られるやうになつた御事蹟が、1,000年の時を超えて功を奏したことを思ふと壮大です。
話を元に戻して、大事件と言へば、もう一つ「承久の變」。戰後は「承久の亂」一邊倒になつてゐますが、「亂」といふ呼称には、天皇が権力欲しさに反亂を起こしたかのやうな印象が伴ひますので、敗戰までは「承久の變」が一般的で、佐渡へも「流罪」ではなく「遷し奉つた」と、古くは鎌倉時代の『増鏡』から敗戰前の國史教科書まで一貫して記載されてゐました。たとへば吉野朝に書かれた『神皇正統記』にも、「承久に事ありて」と前置きした上で、北条氏が實権を握つた後、數々朝廷の命に背き「承久の世が亂れた」といふ文脈で、空前の大事件「承久の亂」が起こつたと記されてゐます。
後鳥羽天皇の話題では、どうしても承久の變が中心になりますが、建仁元年(1201)、御所に「和歌所」を復興、勅撰和歌集『新古今和歌集』の編纂をお命じになつた御事績も忘れるわけにはいきません。隠岐島に遷幸後も『遠島百首』をはじめ700首近い和歌をお詠みになり、なかでも「我こそは 新島守(にいじまもり)よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」は、隠岐島で今も愛誦されて有名です。
後鳥羽天皇の還幸は叶はぬまま19年間を隠岐島で過ごされ、延應元年(1239)、御歳60で崩御されましたが、崩御93年後の元弘2年(1332)、承久の變に倣つて同じく隠岐島に遷幸になつた 後醍醐天皇は脱出に成功、鎌倉幕府に終止符を打つた建武中興は餘りに有名です。僅か1年程ではありますが、隠岐島ご遷幸中 後鳥羽天皇の御事績にどれだけお励まされになつたかは想像に難くありません。
隠岐神社 http://okijinja.sakura.ne.jp/4000/index.html
水無瀬神宮 https://www.minasejingu.jp/
後鳥羽院顕彰事業公式ホームページ https://www.gotobain-kensyo.com
■主要參考資料
山田義直『日本精神の一貫と國史教育』 昭和5年 目黒書店 244頁 ※敗戦後、占領軍により焚書された一冊
今泉定介『神皇正統記講義』明治29年 誠之堂 301頁
受験講座刊行會『国文学講座. 第11巻』 昭和5年 受験講座刊行會 152頁
國民教育研究會『尋常小學日本歷史教授新案. 巻1 第5學年用』 明治43年 啓成社 272頁
渡辺貞雄『國史科教材研究. 高1 7』昭和12年 成美堂書店 274頁





敗戰後は、占領軍の「神道指令(文部科学省 公式サイト)」により、宮中祭祀が國民から遠ざけられ、祝祭日は単なる休日化すると共に、天皇と國民の「君臣一體」の國體も學校教育等では知らされずに戰後70年以上が過ぎてゐます。
さうした世間の風潮をよそに、今日においても全ての崩御日(週末等の場合は前の平日)には、各地の天皇陵で、一般の命日祭に當る「正辰祭」が執り行はれてゐます。春分と秋分の日には、宮中の皇靈殿で、天皇陛下が御親ら歷代天皇・皇族をお祀りされる皇靈祭が行はれます。
一般のご家庭でも、命日には故人を偲び、その遺志を繼いでいかうと決意を新たにするやうに、國内の御陵の大半が鎭座する京都と奈良から、初代 神武天皇から絶え間なく續く、ギネスブック公認の世界最古の國・日本の遺志を、次の世代に向けてお傳へできましたら幸ひです。暑きにつけ寒きにつけ粛々と祭典を斎行してくださつてゐる宮内庁の職員方に感謝申し上げます。
奥山の おどろが下も 踏み分けて
道ある世ぞと 人に知らせむ
後鳥羽上皇御製
開催概要
開催場所 |
後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵 |
正辰祭 祭日 |
後鳥羽天皇4月4日 順徳天皇10月14日(週末等の場合は前の平日) |
料金 |
無料 |
服装 |
祭典が行はれますので失禮のない服装 和装 洋装(男性は背廣ネクタイ着用、女性はそれに準ずる格好) |
いざ、日本の傳統へ – Touch NIPPON –
ギネスブック公認の世界最古の國・日本。その建國の地・奈良と、千年の都・京都にある宿泊施設[はる家]では、築百有餘年の町家に受け繼がれた日本の傳統文化をお届けしたいと願つてをります。では、日本の傳統文化が受け繼がれた姿とは、具體的にどのやうな姿ですかと問はれれば、それは各家庭に神棚が祀られるやうになつた姿であらうと[はる家]は考へてゐます。史蹟探訪の他、神社清掃奉仕など、年間を通じて様々な祭典に奉賛する機會を通じて、日本の傳統文化に親しんで頂けましたら幸ひです。
奈良の春日大社の參道で創業した[はる家]は、三社託宣(特設サイト)ゆかりの春日大社と石清水八幡宮。大和國一之宮の大神神社、山城國一之宮の上賀茂神社と下鴨神社。石上神宮や奈良縣護國神社などで崇敬會等に奉賛してゐます。地域の氏神神社で傳統行事に參列するなど貴重な學びの機會を頂いてゐますが、[はる家]が公式サイト等で発表する内容は[はる家]が独自に責任を負ふものであり、神社関係團體とは一切関係ありません。
はる家 一覧
はる家 東山
築百有餘年の京町家、職住一體の「表屋造り」を傳へる[はる家 東山]。京都驛から地下鐡十五分、年間千二百萬人以上が訪れる京都東山に位置し、清水寺、祇園、南禅寺ほかへ徒歩圏内。朝晩は白川の小川沿ひを歩く清々しい散策をお楽しみ頂けます。
所在地:〒605-0026 京都市東山区古川町542番地4
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はる家 梅小路
築百有餘年の京町家四棟が隣り合ふ[はる家 梅小路]。京都驛から程近く清水寺、祇園、金閣寺ほかにバス一本。町家ならではの「通り庭」があり、坪庭、出格子、圓窓、縁側など傳統的な京都の佇まひを傳へます。
所在地:〒600-8834 京都市下京区和気町1番地12
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はる家 ならまち
築百二十年を超える奈良の庄屋屋敷。日本庭園、家族風呂、縁側つき客室など傳統的な日本家屋の佇まひを傳へます。歴史的な町並み「ならまち」に位置し、奈良公園、大佛殿ほか五つの世界遺産に徒歩圏。奈良驛からバス八分(徒歩十五分)。
所在地:〒630-8342 奈良市南袋町31番地4
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