[特集]本當に一代だけ缺史になつてゐる缺史八代

 

[特集]

本當に一代だけ缺史になつてゐる缺史八代

 

5月20日、第9代 開化天皇 率川坂上陵の正辰祭にお參りさせて頂きました。 開化天皇 率川坂上陵は、弊社が運營する築120年を超える奈良の庄屋屋敷[はる家 ならまち]から最も近い御陵でもあります。祭典終了後は、 開化天皇ゆかりの「率川(いさかわ)宮」と『日本書紀』にある率川神社に參拝。近くに殘る率川の跡も訪ねました。

第2代 綏靖天皇から第9代 開化天皇までは、どなたと結婚されて、皇子女が何人をられたか程度しか『古事記』にも『日本書紀』にも記載がないため「缺史八代」と呼ばれることがあります。そもそも實在が定かでないとまで言ひ出す人もありますが、明らかに史實と異なる記載も多い支那の『魏志倭人傳』に一行だけ出てくる「卑弥呼」は教科書に載せてよく、日本が國家の正式な歷史書として編纂した『古事記』『日本書紀』に記されてゐる 開化天皇は疑はしいといふのは不可解な理屈です。

大佛よりも春日大社よりも平城宮趾よりも前に、 開化天皇が宮を營まれてゐたことは、今日の奈良市の發展の基ゐを築かれたに違ひなく、もつと顕彰されて然るべきですが、率川神社には 開化天皇宮趾の石碑一つありませんし、地元住民にも殆ど知られてゐません。「本當に率川神社が宮趾地か定かではない」「他の場所がさうだと言ふ人もある」との反論もありますが、實際には『日本書紀』に基づいて「缺史八代」全ての天皇の宮趾傳承地に石碑があり、多くが神社境内地になつてゐて、御祭神としてお祀りされてもゐます。 開化天皇の率川宮だけ石碑すらなく御祭神として祀られてもゐないことの方が異常で、正史『日本書紀』に「遷都于春日之地。是謂率川宮」とある重みを、今一度、真摯に受け止めたいものです。

第3代 安寧天皇片塩浮孔宮趾の石碑と石園座多久虫玉神社

第6代 孝安天皇室秋津島宮趾の石碑と八幡神社

第8代 孝元天皇輕境原宮趾の石碑と牟佐坐神社(御祭神の一柱は孝元天皇)

第2代 綏靖天皇葛城高丘宮趾の石碑は、葛城古道にあります。全ての石碑は大正4年に奈良縣教育會により建立されてゐます

第4代 懿徳天皇軽曲峡宮跡傳承地には、地元有志による木碑が建てられてゐます

第5代 孝昭天皇掖上池心宮趾の石碑は、奈良縣立御所實業高等學校の敷地内にあります

第7代 孝霊天皇黒田廬戸宮趾の石碑には、自治體による案内板もあります

『萬葉集』に 「葉根蘰(はねかづら) 今為(す)る妹を うら若み いざ率川(いさかわ)の 音の清(さや)けさ」(巻7-1112)と詠まれた、率川神社の側を流れる率川は、サンフランシスコ講和条約により主権が回復する1年前(昭和26年)に始まつた工事で埋められてしまひました(正確には暗渠)。萬葉集に載つてゐる川を埋めたといふ事例は、日本で唯一ではないかと思ひますが、それも 開化天皇の宮趾の石碑がなかつたり、そもそも「缺史八代」が輕んじられてゐる世間の風潮と無関係ではないやうに思へてなりません。埋めたといつても、暗渠といつて蓋をしてあるだけで、掘り起こせば蘇ります。郷土の誇りを取り戻そうと提唱する地元の声や地方議員の活躍が待たれます。暗渠になつた路地には落書きが酷く、日本初の「落書き禁止条例」(平成13年)が施行されてゐます。

落書きのない美しい奈良をつくる条例(奈良縣公式サイト)

缺史八代の内、第8代 孝元天皇については、昭和43年に埼玉県稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣(國寶)銘文により、皇子「意富比垝(オオビコ)」が紛れもなく實在したこと。したがつて當然ながら、父祖 孝元天皇の實在も考古學の成果から証明されてゐます。「埼玉県立さきたま史跡の博物館」で常設展示されてゐて、いつでも見學できます(寫眞撮影もOK)。1,000年以上前の天皇の實在が証明されるといふ奇跡のやうな出来事が、昭和43年、つい最近起きたわけですが、昭和54年には『古事記』編纂者・太安萬侶公の墓所も発見されてゐます。そんな奇跡が起こるのも、その時まで日本が存續してゐたといふ、もう一つの奇跡があつたからですが、先の大東亜戰争の英靈に至る、我が國の存續と発展に盡された先祖の御事績を思ふ時、感謝の念に堪えません。

埼玉県立さきたま史跡の博物館 公式YouTube

敗戰後に強いられた占領政策の悪影響が未だに殘り遠ざけられてゐますが、天皇陵に參拝することは敗戰までは盛んに行はれてゐたことで、京都の修學旅行も明治天皇陵が必ずと言つてよいほど入つてゐます。ギネスブック公認の世界最古の國・日本の根幹を成す神道では、5年、10年、50年と式年を重ねる毎に、神様としての格(神格)が高まつていくと考へられてゐます。第126代の 今上天皇から117代前の第9代 開化天皇は、さうした観点からも最上位に位置付けられてをかしくありません。郷土の誇りとして、もつと自信を持つてよいことで、命日祭に當る正辰祭に今後も可能な限りお參りさせて頂きたいと思ひます。一時的な世間の風潮に左右されることなく、暑きにつけ寒きにつけ粛々と祭典を執り行なつてくださつてゐる宮内廳職員方に感謝申し上げます。

 

開催概要

 

開催日時毎年5月20日 ※週末の場合は前後の平日
午前10時00分
所要時間30分前後
料金無料
服装和装 洋装(男性は背廣ネクタイ着用、女性はそれに準ずる格好)
祭典が行はれますので、神様に失禮のない服装にてお願ひ致します

 

■ 主要參考資料・引用文献書目

奈良縣編『大和志料』大正3年 奈良縣教育會
『奈良縣史蹟勝地調査會報告書 第1回』大正6年 大和文化財保存會
松岡静雄『紀記論究 建国篇 大和缺史時代』昭和6年 同文館
藤田庄二郎『開化天皇率川宮趾』昭和13年 フクノ印刷所
大井重二郎『上代の帝都』昭和19 立命館出版部
丸山二郎『日本古代史研究』昭和23年 大八洲出版

 

いざ、日本の傳統へ – Touch NIPPON –

ギネスブック公認の世界最古の國・日本。その建國の地・奈良と、千年の都・京都にある宿泊施設[はる家]では、築百有餘年の町家に受け繼がれた日本の傳統文化をお届けしたいと願つてをります。では、日本の傳統文化が受け繼がれた姿とは、具體的にどのやうな姿ですかと問はれれば、それは各家庭に神棚が祀られるやうになつた姿であらうと[はる家]は考へてゐます。史蹟探訪の他、神社清掃奉仕など、年間を通じて様々な祭典に奉賛する機會を通じて、日本の傳統文化に親しんで頂けましたら幸ひです。

奈良の春日大社の參道で創業した[はる家]は、三社(さんしや託宣(たくせん特設サイト)ゆかりの春日大社と石清水八幡宮。大和國一之宮の大神(おほみわ神社(じんじや、山城國一之宮の上賀茂神社と下鴨神社。石上神宮や奈良縣護國神社などで崇敬會等に奉賛してゐます。地域の氏神神社で傳統行事に參列するなど貴重な學びの機會を頂いてゐますが、[はる家]が公式サイト等で発表する内容は[はる家]が独自に責任を負ふものであり、神社関係團體とは一切関係ありません。

はる家 東山

はる家 東山

築百有餘年(ちくひやくいうよねんの京町家、職住一體(しよくぢゆういつたいの「表屋(おもてや造り」を(つたへる[はる家 東山]。京都驛(きやうとえきから地下鐡十五分(ちかてつじふごふん、年間千二百萬人(せんにひやくまんにん以上が訪れる京都東山に位置し、清水寺、祇園、南禅寺ほかへ徒歩圏内。朝晩は白川の小川沿ひを歩く清々しい散策をお楽しみ頂けます。
所在地:〒605-0026 京都市東山区古川町542番地4
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はる家 梅小路

築百有餘年(ちくひやくいうよねんの京町家四棟が隣り合ふ[はる家 梅小路]。京都驛(きやうとえきから程近く清水寺、祇園、金閣寺ほかにバス一本。町家ならではの「通り庭」があり、坪庭、出格子、圓窓(ゑんまど、縁側など傳統的(でんとうてきな京都の佇まひを(つたへます。
所在地:〒600-8834 京都市下京区和気町1番地12
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はる家 ならまち

築百二十年を超える奈良の庄屋屋敷。日本庭園、家族風呂、縁側つき客室など傳統的(でんとうてきな日本家屋の佇まひを(つたへます。歴史的な町並み「ならまち」に位置し、奈良公園、大佛殿(だいぶつでんほか五つの世界遺産に徒歩圏。奈良(えきからバス八分(徒歩十五分)。
所在地:〒630-8342 奈良市南袋町31番地4
[はる家 ならまち]のサイトを見る